新着

風景と画面のアナロジー 写真家・吉田志穂インタビュー


コントラストの効いたモノクロの風景と、その中に浮かぶPCのスクリーン画面。写真家・吉田志穂は、やや退屈にも思えていた「ランドスケープ(風景)写真」と“インターネットネイティブ”であるわれわれを繋げてくれるような新しい風景イメージを作り出している。



測量|山(2016)

吉田は、2014年、第11回1_WALLにてグランプリを受賞したのち、2017年には、SHISEIDO ART EGGにて選出された。どちらも若手アーティストの登竜門とされるコンペティションだ。彼女の作品の特徴は、山や海といった風景写真とともにインターネット上から引用した画像を作品内に取り入れていること。画像が映し出されたPC画面をフィルムカメラによって撮影することで“写真作品”として成立させており、一見して“PC画面を撮影した”とわかるものあれば、それが引用した画像なのか、実際に足を運び撮影したものなのか、区別がつかないものもある。そんなふうに現代に生きるわれわれが常に見ているであろう風景=画面を巧みにイメージへと落とし込むことで見慣れていたはずの風景写真が新鮮に見えてくるのだ。

そもそもランドスケープ写真って?彼女にそんな疑問をぶつけてみると、一例として「アンセル・アダムズ」と写真家の名前が返ってきた。彼はヨセミテ渓谷やカリフォルニアの風景をモノクロで撮影し、スペクタクルな自然の風景を捉えたアメリカの写真家だ。

「結局、昔の人には勝てないということを感じていて。それはもちろんプリントのクオリティから全部です。あんなにきれいな景色と同じものを自分が撮っていても意味がないし、世の中で撮られてない場所はあるのかと聞かれると、そうでもないという気もします」

さらに、今となっては「ヨセミテ」と画像検索をすれば、さまざまなアングル、時間、地点で捉えられた風景の画像が無数に出てくる。こうした大量のイメージに囲まれたメディア環境が身近にあることもまた「撮影されていない場所はもうないかもしれない」という感覚を強める要因のひとつだろう。そして、こうした現代をとりまく現状への率直な感覚は、作品を生み出すうえで彼女の軸を成すコンセプトのひとつとなっている。そんな考えに行き着くまでには、いくつかの過程があったという。



測量|山(2016)

—もともとランドスケープを撮影していたんですか?高校の頃から写真をはじめたって。

そうですね。ちゃんと写真を撮りはじめたのは大学1年生からで、そのときは人物も撮ってました。何を撮っていいかわからなかったので友達を撮ったりして、作り込んだポートレートみたいなものを作っていたのですが、なぜか全然面白くなかったんです。

—人を撮るのが面白くなかった?

はい。高校で入っていた写真部の延長で人を撮っていたのですが、それが面白くなかったんです。それから友達に「お前、同じようなものしか撮れないな」と言われたのがきっかけで、ランドスケープを撮ってみようと。ひとつ上の先輩にランドスケープが上手な人がいたのですが、ポエティックな要素を入れてダークな世界観を作っているような写真で、風景もこういう感じで撮ったら作品になるんだと気付いて。それもきっかけでしたね。

—それからランドスケープを撮りはじめた。

それに、このままじゃ評価されないっていう瞬間があったんですよね。

—どういう瞬間だったんですか?

大学では季節ごとに作品の発表会があったのですが、2年生くらいのときからプレゼンをしても、ピンと来られないことが多くて「きれいなんだけど……」と評価がそこで止まる感じでした。

—それは今みたいに加工せず、いわゆる普通のランスケープ写真を撮っていたから?

わりと今と近いことはやっていたんですけど……若い人によくある傾向でもあるのですが、当時は私もとくに問題意識がなかったので、コンセプトがないんです。いまだに見る人によっては「中身のない写真」と言われることもあるのですが、まさにそうで。

—コンセプトがない状態で作ると、どういう展示になるんでしょう。

1点、1点の作品のクオリティは悪くないと思うのですが、まとめて見れないというか。

—逆にまとめて見ると意味がわからなくなる。

例えば、いろんな場所の風景をきれい撮った写真に後付けで「現実感の無さが……」と言われてもよくわからないですよね。

—たしかに。

そういう状態が2年生から3年生までまるまる1年くらい続いて。そのとき、学校のスタッフに作家の方がいたり、先輩の写真家を調べたり、展示を見に行ったり、たまに会えば話を聞いたりしていたんです。それから、彼らみたいに撮るにはどうしたらいいんだろうと考えはじめて、風景写真に対して同時代性のあるコンセプトを考えていこうとなっていきました。



測量|山(2016)

「普段からグーグルマップや画像検索といった“ツール”を用いて“ロケハン”をするのが好きだった」そう語る彼女は、そういった行為そのものに同時代性を見出したのだという。それは、“ツール”として使っていたものが、“コンセプト”へと変わっていく瞬間でもあった。そして、イメージを扱う写真家として無数に存在する画像とどのように対峙していくのか。そんな問いが生まれることになる。

「当初は、『自分の写真と検索で出てきた画像との差がどこにあるかわからない』というネガティブな問題意識で作っていたんです。だけど、その問いかけって先がない。『じゃあ、なんなの?』と聞かれると困るというか。今は『差異なんかなくていい』というポジティブなコンセプトで撮れているので、むしろ今のほうが発展の余地が出てきています」

写真と画像の間に差はない。それが彼女がたどり着いたひとつの答えだ。そんなユニークなインターネット観は作品のひとつのスタイルとなっている、作品に画像を引用するというアプローチに繋がっていっていった。しかしなぜ「差異がない」と言い切れるのだろうか。



測量|山(2016)

—吉田さんの場合は検索で見つけた画像に対する扱い方が独特ですよね。

そもそも画像検索を使って自分では撮れない写真を探していたんです。例えば、この写真作品にどうしても火口の写真が欲しいけど、自分では撮りに行けない場所にあるし、まさかヘリを出すこともできない。それなら検索すれば出てくるし、画面を撮ってしまえば入れられるなと。

—その感覚は今っぽい気がします。

でもわたしの場合はやりすぎているせいか、その感覚がよくわからなくて。一歩間違えると、オリジナリティの問題や複製、著作権の話になってくると思うのですが、自分の感覚としては、足りないものを補う撮影行為の一環として撮影しているんです。

—画面を撮影することも制作のひとつだと。

仮に火山の火口が撮れる範囲にあるならばそこに行きますが、今は撮れないので仕方なくという感じもあるかもしれません。

—グーグルマップできれいな風景があれば撮る?

そうですね。それに、グーグルマップはフレーミングができるのでそれもひとつの撮影行為なんですよ。地形を撮る場合はかなり選べて、立体にすることも、平面にすることも選べます。最近はストリートビューでさまざまな場所へと行けるので、かなり自由度が高いんです。



測量|山(2016)

—ネット上の画像と撮影した写真の間に差はないというのは、どんなところに差がない?

身体を動かして、ある一定の過程を経た方が優先されるんじゃないかということはよく言われるのですが、感覚としてはどちらが偉いということはなくて。必要なコマだから撮ってるし、写真としては両方好きなんです。それに、どちらも同じフィルム上で撮れば、わたしの中で条件が一致してるんです。同じ条件で撮影してるから、同じように扱うことができるし、同じように加工もできる。

—フィルムで撮影していることが大事なんですね。たしかに粒子がはっきりと見えるようなフィルムの良さを生かしたイメージの作り方をしているように思えます。

そうですね。あと、全然話が変わってしまうのですが、資生堂ギャラリーで個展をした後、展示の様子を撮影した写真がネットにたくさん上がっていて、それがかなり面白かったですね。

—どういうところが一番面白かったんですか?

みんな少しずつ撮るものとかアングルが違うんですよ。どれも似た場所を撮っているのですが、対象に対していろんなパターンの情報があることが面白くて、そういうものを見てると「撮られていない場所がない」と悲観的に受け止めるよりは「たくさんの情報があるからこそ撮れる写真がある」と考えられる気がするんですよね。

—画像検索を踏まえたうえで撮れる写真があると。

それは目指していることのひとつですね。ランドスケープ写真の文化を通して昔より良いものを撮れないと思うのはつまらないので、今だからこそ撮れるランドスケープ写真は何かということは少し考えています。そうしないと、行き着く先がなくて。



測量|山(2016)



展示風景(SHISEIDO GALLERY・2017)

写真も画像もフィルム上に焼き付けることで同質のものとして扱うことができるようになり、コンセプトを構築するためのひとつの“素材”となる。だから「差異がない」と言えるのだ。吉田の写真の面白さはこういった写真と画像への独特なスタンスがベースとなっている。

また、彼女の作品を生み出す姿勢は、有象無象の情報が存在するインターネットと写真の関係性についての考察であるとも言えるだろう。そのとき、彼女が行っていることは、異なるもの同士の共通項を見つけ出し、アナロジー(類似、類推)を提示する行為であるように思える。アナロジーとは、未知の説明できない物事に対し、われわれがすでに知っているものへと言い換えることで説明可能にする方法論だ。



砂の下の鯨(2017)

展示風景(hpgrp GALLERY・2017)

7/14から7/29まで開催されていた個展「砂の下の鯨」では、あるアナロジーが作品の軸を成していた。この作品は、地元の海をグーグル・マップ上で見ていたとき、座礁した鯨の埋立地を偶然発見したことからはじまる。実際にその地点へと訪れてみると、新たな発見があったという。それは、風によって作られた浜辺の砂の模様があたかも鯨の皮膚のように見え、砂の下に埋められているはずの鯨の存在が実感をもって感じられたという体験だった。

展示では、海を泳ぐ鯨や浜辺に座礁した当時の報道番組などの画像が引用されているが、それらは実際には彼女が体験し得なかった事実についてのものであり、もっとも直接的には関係のない鯨の画像も含まれている。しかし、砂浜や海岸を撮影した写真とともに並列されることで、作品を作るきっかけとなったアナロジー=砂紋と鯨の皮膚の重なりをビジュアル上で再現し、実際に見ることのなかった“鯨”のリアリティを感じさせるような仕掛けが施されている。





砂の下の鯨(2017)

さらに、ここで分かるのは、写真と画像を混在させるという手法によって、ビジュアル上の重なりだけではなく、実際に目で見た光景と経験することのなかった事実というふたつの“出来事”にも共通項を見出すということだ。つまり、目に見える表面上のアナロジーだけではなく、その裏に存在する事実や歴史といった目に見えないもの同士のアナロジーも扱うことにも成功しているのだ。

そんなふうに、コンセプトからアウトプットまで異なるもの同士のイメージを組み合わせ、共通項を見出していくところに、彼女の写真の面白みがあり、インターネット上に広がる果てしない風景を「写真」という切り口から理解するためのヒントがあるように思える。そして、その姿勢こそが「今だからこそ撮れるランドスケープ写真は何か」という問いへのひとつの答えとなっている。




<PROFILE>
吉田 志穂(Shiho Yoshida)
http://shihoyoshida.net/

<STAFF>
Writer:酒井 瑛作(Eisaku Sakai)