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忘れられそうな狭間を表現する 環ROYインタビュー




ラッパー・環ROYのあり方は、いわゆる一般的な意味でいう“ラッパー”とはかなり異なる。とくに前作のアルバム『ラッキー』から最新アルバム『なぎ』に至るまでの約4年間は、美術館や劇場などでパフォーマンスやインスタレーションを行い、ファインアートに接近した独特の態度をみせていた。
そうした活動についてのインタビューは、今年の2月に別途掲載している。 「分かる気もするけど、分からない事」- 環ROY インタビュー -
ラッパーとしてのオルタネイティヴを体現し続けている環ROY。今回、そんな彼に再び話を聴き、新しくリリースされたアルバム『なぎ』のバックグラウンドにある“表現の原理”を掘り下げようと試みた。いま、環ROYが時代に対峙して考えていることとは。






■日本語によるラップを捉え直す

—前作のアルバム『ラッキー』から約4年経ちました。これまでの環さんの活動からすると少し長かったように感じます。どのような4年間でしたか?

環ROY:曲を作ってCDにする、それをライブで実演する、というのがルーティンワークのように感じられてしまって。なので、違う角度からも音楽に取り組んでみたいと思って活動していました。様々な機会に恵まれて、ダンサーの島地保武さんと作品をともにしたり、インスタレーションを発表したり、映画音楽や広告音楽をやらせてもらったり。そういった経験から、今回のアルバムに至る動機が形作られていったように思います。

—なるほど。さっそくですがアルバムが「古今和歌集」の引用からはじまりますよね。まず、冒頭に和歌が入っていたことがとても印象的でした。

環ROY:そうですよね、珍しいって言えますよね。突然現れる感じが面白いと思って、和歌を置きたくなったんです。藤原敏行の歌を引用しています。五七五の響き、あらためていいなって思いました。

—和歌や古い日本語表現は、ー般的なポピュラーミュージック、とくにラップミュージックにはあまり使われてこなかったように感じます。

環ROY:そうかも知れないです。僕がやってるラップという唱法は、主にアメリカから来ているものなので、どうしてもアメリカっぽいことが良しとされるんです。でも、やっぱり僕は日本人なので「日本っぽいものも良いじゃないですか、ここ日本だし」って言ってみたかったんですよね。

—和歌とラップミュージックを混ぜてみようと思ったきっかけはあるんですか?

環ROY:単純に自分が日本人なので、母語の日本語表現を掘り下げていきたいと思っているからです。国語の授業じゃないけど、その過程で和歌にも出会いますよね。あと、英語が全然上手じゃなくて、それなら、生まれた時から使っている日本語を頑張ったほうがいいよねって思ったんです。





—あらためて日本語を掘り下げていく中でどんなことを考えていましたか?

環ROY:いろいろあるんですけど、分かりやすいところを挙げるとしたら、和製漢語を意識していました。「主観」「思想」「象徴」「自由」とか二文字で表される熟語を和製漢語って言うんですけど、明治以降に西洋から入ってきた概念を翻訳するため、漢字を組み合わせて作った新しめの言葉なんだそうです。そういう言葉は、概念を二文字で伝えようとする目的が最初から与えられてしまっているせいで、歌詞に使うには合理的すぎる場合があります。あまりフワッとしてくれないというか。なので、避けたり、類語を探したり、ときにはライミングのために、あえて連続で置いてみたり、そうやって自覚的に扱うようにしていました。

—冒頭から、和歌や古い日本語表現の話にフォーカスを当てていましたが、歌詞に触れて最終的に感じたことは「バランス感がとてもいい」ということでした。聴き手である私たちの生活感覚と地続きでありながら、1000年前のような、どこか昔の感覚にも繋がっているような、そういったことを感じる、他にない体験でした。

環ROY:いま言ってくれたように、感じてもらえればいいなと思って取り組んでいるので、とても嬉しいです。歌詞の中にある時間と空間の関係はいつも大切にしています。たとえば、今朝から今夜までの一日を歌っていたとしても、500年前の朝から今日の夜までの500年間を歌っているようにも解釈できたらいいなと思ってるんです。受け取って貰えた気がしてよかったです。

—歌詞の中にある時間や空間のスケールが大きくなった分、これまでの作品よりも、内容が抽象的になったという印象も受けました。

環ROY:時間と空間を可変可能にしたり、置換可能にしたりすることで、解釈に汎用性を呼び込もうとしているからだと思います。そういう指向で制作していると、ある程度、抽象的になっていくと思います。







■合理性を追求する時代の真っ只中で

—アルバムのタイトルである『なぎ』は、”戦前の音楽”という意味があると伺いました。どういうことなのか詳しく聞かせていただけますか?

環ROY:なぎは無風状態を指す「凪」や、切り払って平らにする「薙ぎ」、植物の「梛」とか、いろいろな意味があってタイトルに選びました。”戦前の音楽”と僕が言ったのは「凪」のことで、もし、未来から2017年を振り返ったら、あの頃はまだ平和な「凪」の時代だったね、と言っていそうな気がしたんです。なんらかの作品に触れたとき、それがいつ作られたのか、戦前なのか、戦中なのか、戦後なのかって結構重要だなと思うことがあって。僕は今現在を戦前と位置付けているんです。そういう意味でこの作品は”戦前の音楽”だなって思って作っていました。

—たしかに。なんともいえない緊張感が年々強くなっているように感じます。2020年には東京オリンピックが控えていますしね。

環ROY:そうですね。その頃には、テロが起きることもありえますよね。あと2年ちょっとなのに、あまりそういう話にはならないですよね。そういうことは言わないほうがいいんでしょうね。

—そういった悲観的な話はあまりしないほうがいいようなムードなんでしょうね。

環ROY:ですよね。ラジオとかで絶対言っちゃダメなやつでしょ?いまの日本で、とくにポピュラーミュージックのシーンで、そんな話をしたって引かれるだけですし、「なんかそういう怖いアルバムなのかな?」って思われちゃうし。アルバムの中で、そんな話は全然出てこないので構えずに聞いてほしいんですけど……そういう話、あんまりしない方が良さそうですね(笑)。

—(笑)。質問を変えますね。普段ってどういうことを考えています? 最近のことでも、この作品を制作していた時のことでもいいのですが。

環ROY:都市部やインターネット上だけなのかもしれませんが、あまねく場所で合理化と細分化が進みすぎていて、なんだか生き辛いなー、と。どんな物事にも当てはまると思うんですけど、ある種のカテゴリとか、既存の定義に収まるように、ラベリングしようとする圧力を感じています。一発でわかるラベルがないとすぐに流されてしまうというか……非合理的でよくわからないものって嫌われてる感じがするんですよね。思いませんか?

—たしかに、わかりやすさが強く求められているように感じます。なぜそうなっていくんでしょうね?

環ROY:おそらくですけど、僕らって言葉を話しはじめたときから今に至るまで、科学を発展させて、”死”を遠ざけることで幸福になろうとしてきたと思うんです。それって別の言い方をすると、いかに合理的に世界を組み換えていくかってことだと思うんですね。つまり、僕たちの欲望が、合理化と細分化を引き起こしていると言い換えられるんですけど。

—……なるほど。合理化と細分化ってどんなことがあるのかと聞きながら考えてました。  

環ROY:飛躍してて意味わかんないですよね……例えば、急ですけど、肉を食べるときってどうしますか?

—スーパーで買って食べますね。

環ROY:そうですよね。でも、ずっと昔は動物を狩ったり、育てたりした後、捌かないと肉を食べられない暮らしをしていました。でも最近は、育てる人、捌く人、運ぶ人、調理する人が細分化されていて、それぞれが他の工程をあまりよく知らなくても成り立っていますよね。人間って集団で暮らす社会的な動物なので、みんなで協力して合理化しようとすれば、そりゃそうなっていくんですけど。





—そのように合理的に細分化されている現状に対して違和感があるということですか?

環ROY:違和感というと大袈裟ですが、自分も含めて、そういったことに対して自覚的ではないと思うんです。昔のことを考えると、肉を食べるためのプロセスは、共同体とか家族単位で共有されていて、狩ってくる人、育てる人、捌く人、調理する人、それぞれがどんな人なのか、それなりに把握していたと思うんです。あと、どのくらい血が出たり、どんな臭いがするのかとか、どのくらいの力で反発するのかとか、生き物が肉になっていく過程だって見るはずです。そういった経験を通して、目の前の肉がどういうものなのかを理解するというか……。

—合理性を求めた結果、細分化によって見えなくなったり、失っているものがあるんじゃないかということですよね?

環ROY:そうですね……この話の場合、なにが見えなくなっているかというと、”死”という観念です。”死”は捌く人にお任せで、他の人は、”死”を見なくてもいいことになっている。”死”は怖いことだから遠ざけたい。だけど、”死”は”生”の裏返しで不可分なんですよ。”死”を遠ざければ遠ざけるほど”生”のリアリティも遠ざかってしまうと思うんです。”死”が遠ざかるほど幸せになっていくとも言えるし、逆に、”生”のリアリティまでもが遠ざかってしまうことで不幸になっていくとも言える。そんなような話なんですけど……こういう話も、危ないやつだと思われるからよくないですよね(笑)。

—そんなことないです(笑)。続けてください。

環ROY:結局、何が言いたいのかというと……そもそもこういう話ってあまりしないですよね。細分化された合理的な枠組みの中にいることで、自分がいる枠組みの外を知る必要があまりない、ってことになっているからなんだと思うんですけど。でも、ときどきこういうことについてもっと会話してもいいと思うんです。僕たちが望んだから今現在がこうなっていて、もう戻ることはできないし、解決策とかもとくにないんですけど……話題にする瞬間くらいはあってもいいはずで、自分がいる枠組みの外の人と、意識的にそんな話ができればいいなって思うんですよね。

—なぜそんなふうに思うんでしょう?

環ROY:……わかんないですね。なんかそのほうがいい気がするんですよ。生きてる実感とかそういう話に繋がるような気がしてます。


 


■ぼんやりとした世界を映し出す“鏡”

—いままで話してきたような問題意識は、今回の作品の根底にもあるわけですよね?

環ROY:そうですね。自身の生活に直結していることですし。でも、自分の身の回りの範囲が生きやすい場になればいいと思っているだけだから、社会に向けて主張したいとか、啓蒙したいと思ってるわけではないんです。言葉でいうと難しいのですが……「なんか、これって、こんな感じに見えるんだよねー、どう?」みたいな、ぼんやりとした、細分化されていない、未分化のなにかを感じてもらえる“鏡”のような表現ができたら、それが一番いいと思ってるだけなんです。

ーつまり、細分化されていく現状とは反対の、曖昧というか、未分化な領域に環さんはポジティブな“なにか”を見出しているわけですね。

環ROY:そうですね……そう思います。なんか大切にしたいんですよ。さっき話したように、生き物が肉に変わる狭間、過程がやっぱりあるわけです。科学的な合理性からいうと、どんな状態であろうとタンパク質に変わりはないんですけど。実際、そんなふうには割り切れませんよね。そうやって合理化することで、そういう狭間がなかったことになってしまうのが怖いんです。細分化によってそんな狭間があったことすら忘れられてしまう。 これ、肉の話以外にもいろいろなところでも通じることだと思うんです。だからこそ今は、曖昧な、言い切らない、どちらともいえないぼんやりとした表現をしたいと思っています。その狭間を表現することこそが大切な気がするんです。今回はこういう「なにいってんの?」みたいなとりとめのないことを考える時間がとても多かったんですよね。







STAFF 
Photographer: 吉田 志穂(Shiho Yoshida)
Editor: 酒井 瑛作(Eisaku Sacai)
Writer: 廣田 利佳(Licaxxx)、酒井 瑛作(Eisaku Sacai)


環ROY http://www.tamakiroy.com