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他者の愛し方 映像作家・UMMMI.インタビュー



夜の渋谷スクランブル交差点で、自力では歩けないほどに泥酔した女の子を背負うUMMMI.。彼女の作品に登場する人物は、どこにでもいるけれど、一般的なカテゴリーには収まらない、どこか居心地の悪そうな人たちだ。



SHIBUYA LONELY GIRL (2016)



Female Titles(2016)



映像作家であるUMMMI.は、映像にとどまらず、写真、テキストと複数の媒体にわたって表現を行う。作品全体を貫くのは、冒頭に出てきたような登場人物たちの人生の一端を垣間見てしまったようなリアルな物語だ。それは、自らの経験とフィクションをない混ぜにし、独白にも似た静かな語りとともに描かれる。
すると、不思議なことに、見る者は交わるはずのなかった人物たちと人生のある部分を共有しているような感覚に陥る。そして、自分との間に意外な共通点を見つけることになる。他者を見つめることで、自らの輪郭がはっきりとするようなそんな感覚だ。つまり、作品で描かれる物語は、登場人物たちのドラマであると同時に、わたしたち自身のドラマでもあるのだ。
テーマのひとつは、「愛」だという彼女に、作品で描かれる人物について、そして、そういった他者とどのように関わっていけばいいのかを率直に聞いてみた。



ーいきなりここから始めるのもどうかと思ったのですが、テーマが「愛」だと書いてありました。ただ、愛にもいろいろあると思っていて。そのなかで、UMMMI.さんの作品に共通しているのは、不倫や浮気といった「社会では認められにくい愛」なのかなと思いました。なぜそういったテーマを取り上げるんですか?

それはたまたまなんです。次の個展では、本当に直球の愛についてやろうかなと思っています。人が人のことを愛する感情そのものに興味があるから、「不倫」とか「浮気」とか、エクストリームに思えるものをわざと選んでいるわけではないです。

―どういう「たまたま」だったんですか?

周りを取り巻く環境や自分の考えていることのひとつとして、そうしたテーマが近いところにあったということです。それで、「不倫」などの関係性を取り上げることが多くなっていった。でも、基本的には、もっと幸せの絶頂みたいな愛について扱ってみたいとも思ってます。

―そうなんですね。では、質問を変えてみます。作品内で描く人たちについて聞かせてください。UMMMI.さんが書いた文章で気になるものがありました。炭鉱労働者を支援するゲイの活動家の話を描いた映画『パレードへようこそ』に対する 文章で「マイノリティと言いきってしまって良いのかすらも解らない狭間で揺れる人」という部分です。これは、マイノリティと明確にカテゴライズされない人たちついて言及する文脈で書かれていましたが、UMMMI.さんの作品も同じように、マジョリティとマイノリティの間に揺らぐなんとなく社会に適合できない人たちに視点が向いている気がします。

マイノリティ側に立つというのは、作品を作るうえでとても重要ですね。

―なぜそういったカテゴライズできない人たちを描くようになったんですか? 自分自身も同じ立場だから?

そうですね、たぶん。何がマイノリティかという話になってくるけれど。あらゆる意味で、マイノリティ側だけど、なんとなく声を上げるほどでもない部分がある。そういう人たちに目を向けているということは言える。声を上げることができる人たち、ではない部分でのマイノリティをすくい取っていきたいと思っています。

―わかりやすくマイノリティとは自覚できないような人たちって意外とたくさんいるんじゃないかと思いました。作品のなかで、そういう「なんとなくマイノリティ」な境遇にいる登場人物は?

2016年にPARCOでやった展示の『SHIBUYA LONELY GIRL』に出てくる登場人物たちがまさに狭間で揺れてる人。酔っ払った女の子を運ぶ様子を写したビデオなのですが、酔っ払って歩けなくなるってそれなりにある話で。それは、一般的には大した問題ではないかもしれないけど、作品では、「いや、大した問題だ」というふうにしてるんです。自分の作品のなかであれが一番普通というか、尖ってない。作品のなかでは、わたしを含め、そういう人たちを見守る姿勢です。美術の文脈においてそういう姿勢があってもいいのかなって。

―どういうところが、一番普通?

就職をせず、週5で働いてない遊ぶのが好きな女の子を撮るっていう意識かな。そういう子が、わたし自身だし、“わたしたち”自身でもある。

―酔っ払ってる瞬間を取り上げたのは、それがみんなにも有り得ることだというふうに思ったから? もちろん多くの人が経験することだとは思うけど、作品としてこの場面にフォーカスしたのはなぜだろうと純粋に思いました。

パフォーマンスとして見せたかったんです。運んでるのはわたし自身なのですが、女一人を担ぐのって結構しんどい。20分とか、ずっと一人の重みを背負い続けてるから。これはつまり、普段やらないようなことをやって、自分に対する懺悔みたいなものを課していて、運ぶという行為自体がダメな人を肯定することになっている。自分もダメだという意味も込めて。

―映像作品と平行して更新されていったブログでは、UMMMI.さん自身の作家としての悩みも書かれていました。作品の登場人物である東京の「ロンリーガール」たちの独白とともに自身の話も入れているのはなぜ?



http://shibuya-lonelygirl.tumblr.com/



現代美術の文脈で作品を作るときに、作家そのものの人生が背景として重要になってくる場合が多々あると思います。それが現代美術のいいところだとわたしは思っていて。例えば、どんな家に生まれて、貧乏か金持ちなのか、戦争のある場所で育ったのかどうか、もしくは、日本人なのかそうじゃないのかとか。そのときに、わたしは「何ものかになりたいけど、どうしていいかわらかない」と感じることがあって、そういう感覚を持っている人に対して、作品を読み解く指針になればいいなと思って。

―その感覚が、映像とブログの内容をつなげる。

そう。ブログの文章が書かれた紙は、映像が流れているスペースの床にばらまいてあって、わざわざ拾わないと読めないようになっています。足元に気がついて、落ちてるものにも目を向けてくれる人に文章を読んでほしかった。



Pains of Forever 邦題: 永遠に関する悩み (2015)

―さきほど話に出た「ダメな人を見守る」という姿勢は、UMMMI.さんの作品を特徴づけているもののひとつだと思いました。例えば、『永遠に関する悩み』では、「ホームビデオ」という体で、父と母の複雑な関係性を表現していますが、その形式から感じたのは、自分の立場からの見解ではなく、相手の立場に立って語っていくというスタンスです。なぜそういったアプローチの仕方になったんですか?

生きることのなかで初歩的かつとても重要なことは、相手の気持ちを想像する力だと思っています。それは、スーザン・ソンタグの言う「傾注すること」。例えば、戦争が起きたら、悲しむ人が何億人もいるだろうとか。そんなに大きなことじゃなくても、いつもは楽しく飲んでる女の子が酔っ払って突然泣き出したら「どうしたんだろう?」と考えてみる。その想像力がとても大切だと思っていて、それが大きく言えば政治を考えることにつながるし、日々の日常の些細な出来事に向かっていく行動にもつながる。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。 傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
スーザン・ソンタグ『良心の限界』(NTT出版)序「若い読者へのアドバイス」より




House of Psychic(2014)

―他にも『House of Psychic』では、占いなどのカルトに走っていってしまった女性を題材として扱っていますが、そういう人たちを否定的に捉えるのではなく、肯定的に扱っているのも特徴だと思いました。

「そういう人たち」というよりは、一歩間違えれば、わたし自身の話にもなり得ると思っています。普通に見えて普通ではないところを人は持っているから、もしかしたら自分だって作品で描いている人の500倍くらいダメになっていく可能性もある。一歩間違えたら、明日死んじゃおうと思うかもしれないし、付き合っている人と別れちゃうかもしれないしとか、ギリギリの崖っぷちにいる。でもこれってみんなにもあり得ることですよね? だから、肯定しているというよりは、心の弱いわたしたちが明日そうなるかもしれないという可能性世界を描いています。

―「あったかもしれない人生」を描く作品だと考えてみると、まず自身の経験が作品の骨子になっていて、そこにフィクションを肉付けしていく形だと思うんです。そのときに、フィクションの部分はどういう基準で選んでいるんですか?

まず、自分の経験をメモしていて、あとは近しい友達の話とか、これは絶対作品に取り入れたいと思うことが起きてしまったときにメモしています。食べることが好きなのですが、一度ハマるとそればっかり食べてしまうみたいな、あるひとつの物事にむちゃくちゃ興味が向かっていくような、そういうこと。

―いつも気になっているということ? 「あったかもしれない人生」というパラレルな物語って無数にあると思うんです。そこから、どうやって選び取って作品に取り込んでいくんだろうということが気になりました。

普段から人生のバックアッププランについてよく考えています。作家としてずっとお金を稼いで生きていくのは良くも悪くも大変だろうなって。もちろん作品はずっと作っていくし、作れなくなったときに死ぬと思うから、だから作品を作るという行為は自分の純度を保つ行為であって、お金を稼ぐ行為とはあんまり関係ないんだけど。ただ、生きていくうえで、この先、5年後、10年後、こういう職業だったらやってみてもいいかなと思うものが結構ある。例えば、さっきもちょっと触れましたが、食べることが好きだから、料理人とか。

シモーヌ・ヴェイユの研究をしている今村純子さんという文学研究者がいて、その人が「ポエジー」について話していました。「ポエジー」とは料理人がおいしい料理を作りたいと思うその気持ちだと。作れるか作れないかということではなくて、夢みたいにおいしい料理を食べさせたいと思う心が「ポエジー」。作品も同じことだと思います。

―「ポエジー」を持てる職業が、人生のバックアッププランになると。

それに、映画のような時間を短縮できないことにも興味があります。映画館に入ると巻き戻しも早送りもできないから、基本的にそこに座っていないといけない。仕事で言えば、ガーデナーとか。植物を育てるには時間が必要です。料理人だって、基本的に茹でる時間や焼く時間など待つ瞬間がある。だから、時間と詩的な要素のある仕事には興味があって、そういうジャンルは違うけど、時間短縮のできない物語が宿っていることについて、つねに考えています。わたし自身は作品をずっと作っていくから、実際にはならないと思うのですが、美術だけではない職業について考えてみるのはわたしにとって、とても重要なことです。

―自身のバックアップの人生と、作品で描いているなんとなく社会に適合できない人たちとは、どの部分でつながりを持つんですか?

わたしは物語を作ること以外できないということを知っているから、もしそれがダメになってしまったら本当は生きていけない。だけど、「いや大丈夫だよ」と自分に言い聞かせるような励ましの要素として作品で描く人たちの人生があります。

―それが自分自身と同じような境遇にいる人たちを肯定することにつながってくる。そうやって肯定されることは、ある意味、救いや癒しになるのかなと思いました。

自分にとっての癒しではありません。あくまでも作品のなかで描く人に視線を向けているから。ただ、そこにあるものを肯定しています。例えば、愛している人が、人殺しをしたとする。普通であれば、引いてしまうかもしれないけど、「ちょっと待て」と。自分が愛している人が殺すわけない、もしそうだとしても、何か理由があるはずだと考えるところから、想像力が生まれます。何があっても人は殺しちゃダメだけど、まずは肯定してから考えてみる。でも、それは問題を解決するとか、許すということではない。ただその出来事を肯定する。もちろん作品を見た人が救いを感じてくれるのであれば、それは嬉しいです。

―作品に通底している「相手の立場に立つ」という姿勢は、そうやって他者をフラットに肯定することで、自分の尺度だけでは判断できない物事(他者の人生)を、自分を含めて、一緒に考えていく余地を作るということだと思いました。それに、いままで話してきたことって、他者を愛するひとつの方法であり、姿勢とも言える気がします。

目に見えるものだけに、目を向けないようにということですね。物語を通じて、他者であり、自分自身でもある心の弱くてやさしい人たちについて考えてみる。そうすることで、愛が続いていくといいなと思います。



PROFILE
UMMMI.
アーティスト / 映像作家。愛、ジェンダー、個人史と社会を主なテーマに、フィクションとノンフィクションを混ぜて作品制作をしている。過去に現代芸術振興財団CAF賞 美術手帖編集長 岩渕貞哉賞受賞(2016) イメージフォーラムフェスティバルヤングパースペクティブ入選(2016) MEC AWARD2016 佳作(2016) ポンピドゥーセンター公式映像フェスティバルオールピスト東京入選(2015) など。
http://www.ummmi.net/


STAFF
Writer: 酒井 瑛作(Eisaku Sacai)
Editor: 廣田 利佳(Licaxxx)