Diary

コラム #01「嘘っぽい広告 / 本物っぽいドキュメンタリー」


文・酒井瑛作(Eisaku Sacai)


昨年末に公開されたNever Young BeachのMVはもうチェックしただろうか。
ずっと見ていると、なんだか小松菜奈が自分の彼女のように見えてくると話題になったあの映像だ。




ビデオは小松菜奈がひたすらにかわいいということで注目を集めた(曲が頭に入って来ないという意見多数)が、注目すべきなのは、全編スマホで撮影されていたこと、そして、きれいな風景などではなく、ノンフィクションやドキュメンタリー的な「生っぽい」風景や人が映し出されていたということだ。誰もが一度は撮影したことがある何のてらいもない映像だった。しかし、そんな映像が、れっきとしたアーティストのビデオとしてリリースされたという事実から話をはじめたい。

この事実からは、広告や雑誌が従来行ってきたような方法論でビジュアルを作っても、良いリアクションが得られなくなるかもしれないこと、ある程度許容されていた「嘘」を重ねてビジュアルを構築していく方法が限界を迎え始めていることなどが見えてくる。そして、何がリアル”らしく”見えるのかというリアリティーをめぐる話につながっていく。


コミュニケーションに組み込まれる動画


こうした変化を生んだひとつの要因は、言うまでもなくSNSだ。

SNSにおいて写真や動画は、記録するための道具からコミュニケーションするための道具へと変化していった経緯から考えてみよう。

「今まで動画撮ったことある?」なんて質問をすれば「あるに決まってる」と当たり前すぎる質問に呆れられるかもしれない。スマホがあれば、写真だけではなく、動画だってボタンひとつで撮影することができる時代だ(あえて指摘すること自体が馬鹿らしいほどに浸透している)。

そんな撮影の気軽さは、ついには動画がコミュニケーションの一部に組み込まれるほど、カジュアルダウンしている。ここ何年かで、インスタやツイッターにアップされる動画の量が格段に増えるとともに、ソーシャルメディア側もより大きな容量の動画をアップできるよう環境を整えてきた。

たとえば、友達と遊んでいる様子やイベントを楽しんでいる様子を動画に収めるとき、リアルタイムで「撮って出し」することがある。とくに実況中継的に投稿するような即効性が求められる場合は、凝った編集や加工をせず、「生」の状態でSNS上にアップされることが多い。アップした側は、イベントへの参加意識を強め(「今、このイベントを楽しんでいる」)、その受け手は、参加せずともイベントの状況を感じる(「こんなイベントやってるんだ」)ことができる。タイムラインを覗けば、誰かが撮影した動画を目にし、リアルの場にいる/いないに関わらず、オンライン上で時間を共有することになる。そんな状況が繰り返され、当たり前になりつつある。

このように動画をアップすることが普通となり、日常的に動画に触れる機会が格段に増えたのがここ何年かのSNSの状況だと言える。



素人の写真を求めるインスタのニーズ
 

SNS上で動画を撮影し、アップしていたユーザーの多くは、いうまでもなく映像の素人だが、そういった人たちが撮影した映像や写真だからこその価値を見出す人々が現れてきた。

最近の若い世代は、お店の情報を調べる際に、グーグルで検索する前にインスタで検索するという。通常の検索で出てきた情報は「盛られた写真で、本当に美味しいのかどうか分からない」らしい。インスタであればハッシュタグなどで関連付けられた素人の撮影したメニューの写真が出てくる。そういう写真を見て、本当に美味しそうかどうか、または、実際に食べられているメニューはどれなのかを見極めるのだ。

「盛られた写真」とはつまり、プロのカメラマンが、プロの機材(高性能のカメラ・ライティング)で、きれいに整えられたメニューを撮影した写真のことだ。10代の若者に言わせれば、そういう整えられすぎた写真からは事実が見えづらいという。

検索すれば大量の情報が列挙されるなかで、その正誤を精査するのはなかなか骨が折れる。面倒を避けようと、真実味のある情報を探そうとした結果、行き着いたのがインスタの検索というのは、たとえ普段からインスタで検索していないとしても頷けるのではないだろうか。ここでは、素人の撮影した写真のほうが事実に近いという価値観が共有されているのだ。

こうしたニーズの変化から推測して言えることは、インスタに写真を投稿する人のなかには、プロとアマが混在しており、「利用者」というカテゴリーにまとめてしまえば、送り手と受け手という構図が意識されない。そんな場であるからこそ「自分と同じ目線で撮影された写真」に対して信頼を置くようになったのではないか。つまり、今まで受け手とされていた人たちと同じ機材・条件で撮影されているということが、「嘘のない写真」ということになるのではないだろうか。

そんなニーズの変化もあってか、最近の広告や雑誌(とくにインディペンデント系の)では、プロたちがあえて機材やロケ地のクオリティを落として、「受け手のいるところへと降りていく」という動きがよく見られた。

(「写ルンです」などのパンフォーカスで感度も微妙なフィルム写真がより一般に広まっていたのも、単にノスタルジーではなく、上記の「素人化」の流れによる部分が大きい気がしている。)


本物っぽいドキュメンタリー
 

冒頭のNever Young Beachの動画を詳しく見てみよう。

部屋や旅行などのシチュエーションごとに小松菜奈を記録した映像が続く。縦長の画角で高いとは言えない画質の映像は、スマホでの撮影を思い起こさせる。(というか、間違いなくスマホのカメラだ)。手ブレは激しいし、強風で時折音声は潰れている。

スタッフクレジットを見てみると、監督は奥山由之、スタイリングは伊賀大介とある。ファッションに詳しい人ならば、ピンと来る組み合わせのはず。二人は、若手のなかでも頭ひとつ抜けた存在として注目を集めており、お馴染みの組み合わせでもある。

ごく一部ではあるが、フィルムブームをより一般に広めたのは、奥山由之だと言ってもひとまず間違いではないと思う。フィルム特有のノイズや色彩を活かした写真は、ファッション誌をはじめ、広告などでも取り上げられた。さらに、撮影の現場では「写ルンです」を使用していたことも、一部では有名な話だった。

対して、伊賀大介は、大根仁監督(『モテキ』、『バクマン。』など)作品での衣装のスタイリングなどの映画や、ファッションシーンで活躍するスタイリストだ。

二人とも立派なプロ。そもそも小松菜奈だって、日本人ならば誰もが知っている存在になりつつあるような女優/モデルだ。そんな彼らが普通の人でも撮れそうなクオリティの映像をリリースしたのは間違いなく先に挙げたようなニーズがあったからだ。ただ、あくまでこれは、極めて素人に近い方法を使いつつも、事前に計画し、本物に似せて撮影した「フィクション」であるということを押さえておかなければならない。
少し恣意的な引用かもしれないが、スタイリストの伊賀大介のインタビューでこんなことを言っていた。



伊賀:何者では、BOOK OFFの古着がいっぱい置いてあるようなところに行って、大学生が着古したような感じの服を集めて、それぞれのキャラクターに合わせて着てもらったんです。佐藤健くんとか、もちろん普段はかっこよくて、私服とか本に洒落てるんですけど、バクマン。で一緒にやった時からそうでしたけど、役作りのアプローチを自然にやってくれる方で。バクマン。の時はこの役、童貞に見えないとマズイからって、ルミネの6階、トータル18.000円みたいな服を着てもらって(笑)。

http://realsound.jp/movie/2016/11/post-3153_3.html




映画のリアリティに関する質問の答えだったが、映画の現場での試行錯誤の延長線上に、今回のMVがあることは間違いない。本物っぽさをいかに作り上げるか。フィクションでありながらも、いかにドキュンメタリーに仕上げるかということを、ひとつの美的基準として捉えている節がある。

実は、1990年代のファッションフォトにも似たような転換があった。以前は「VOUGE」などに代表されるファッション誌によるラグジュアリーなファッションフォトが主流だったが、あるときから、スナップショットのようななんでもない日常のシーンで撮影された写真が取って代わるようになった。その際は、モデルが撮影する側に回ったり、ユースを撮影していたフォトグラファーがファッションへと参入するなど、新たなプレイヤーによってある種の転換が生じていた。

しかし、現在起きているのは、ソーシャルメディアなどによって醸成されたイメージを介して送り手と受け手がコミュニケーションするなかで生まれた転換だ。受け手によるフィードバックを受け、プロたちが「素人化」する選択をしているとも言える。

2017年は、この流れはどのように変化していくのだろうか。どこまでカジュアルダウンさせるのかといったことや、もしくは、ドキュメンタリーを追求していけば、制作自体をある種の「嘘を付けない状況」へと変化させていくのか、などいろいろと試行錯誤されていくことになるはずだ。

受け手である人々は、提供されるイメージが本当かどうかはひとまず置いておいて、ひと目見て「本物らしい」と判断できるものへのニーズは高まっていくはず。そしてさらに、日々情報のシャワーを浴びるなかで、そのビジュアルが「本物」か「嘘」かという判断は、より洗練されていくことになる。中途半端なクオリティのものは「嘘っぽい」と一蹴されるだろう。

雑誌や広告で展開されてきたビジュアルは、ある種の「嘘」で満ちているということはとっくにバレてしまっている。そういう状況のなか、どうやって「本物っぽさ」を作り出していくのか。もしくは、何が「本物」なのか。昨年の”トランプ”で痛感したように、真実と嘘がごちゃ混ぜになった今、誰しもが一度考えておく必要があるのではないだろうか。